10年目のミスiD-「ミスiD」の再定義 を受けて考えたこと
今、ミスiD2022というオーディションに参加しているのですが、そのミスiDに関して論争のようなものが巻き起こっています。
なんだろうと思い、エントリー者の方々がアップしているnoteをかたっぱしから読んでいき、大元になるであろう2つのnoteの存在を知りました。
自分としてはかなり耳が痛い、というか勝手にグサッとくるような内容でした。
まずは以下のnoteを読んでいただければと思います。
・あめさん
https://note.com/pluiexx41/n/n4b299e9ccf95
・くそねみねむ助さん
https://note.com/nemusuke_2020/n/n58eafe4aecbc
どのnoteも、ミスiDに対する愛を感じるものでしたし、皆が何かしらの形で頑張っているんだなと実感しています。
誰かを完全に肯定することも否定することもわたしには出来ないし、したくありません。
自分本位な人間ですから、この件で色々な方の意見に触れるまでは「ミスiDのために」ということは少しも考えていませんでした。
だからこそ、ミスiDの場を借り、文章という形で自己表現をさせていただいている身として、この件にはしっかりと向き合いたいと感じました。
以下、元記事と同じ構成で書かせていただきます。
あくまでわたしの主観です。
■ミスiDとアイデンティティー
「ミスiD」というものには、形がありません。
世界でも類を見ないほど自由なオーディションなんじゃないかと思うくらい。
Googleで「ミスiD」と検索した時、1番上に表示されるのは「新しい時代にふさわしいまだ見たことのない女の子を発掘し育てる講談社主催のオーディション」という説明文ですし、
公式サイトでは「新しい時代をサバイブする多様な女の子のロールモデルを発掘するオーディション」と定義されています。
つまり、何を武器に戦ったっていいんです。
その姿が上記の定義に当てはまるものに見える、あるいは見せることが出来れば、その人はミスiDにふさわしいと言えるのではないでしょうか。
主観なんて人それぞれなので、例え審査員がどう思おうが、自分が上の定義に当てはまっていると信じることが出来ればいいんだと思います。
わたしも自信があるからここにいます。
引用したnoteの中で勝手にグサッときた文章が、あめさんの
「ミスiDのためにnoteを書こうという意識、それは気持ち悪いと思っている。ミスiDがなかったら書かないような文章に価値があるとは思えない。もちろん、きっかけとしてのミスiDを批判しているわけではない。ミスiDのために魅せるnoteを批判しているわけでもない。ミスiDのために作る「わたし」に面白みはないだろうと言っている。」
こちら。
まさにわたしは(noteではないけれど)ミスiDのために文章を書こうと意識し実践しています。
確かにミスiDがないと、こんなに自分のことをさらけ出すような文章は書いていなかったと思います。
批判されているわけではないと分かっているけど刺さった文章。いい意味で。
この問題提起を受け、わたしはミスiDのために「わたし」を作っていたのか?と考えました。
個人的には、「本当のわたし」と「森田ヒ夏」は別の人格だと認識しています。
現在ミスiDのためにブログを毎日更新しているのですが、「わたし」をある限り提示するから「森田ヒ夏」のことはかってに定義してくれていい。そして、「森田ヒ夏」を通じて「本当のわたし」を見つけたい。
ということが1番の願いであり目標です。
なので、ミスiDのために「わたし」を作っているということには一応なりません。
しかし、わたしの説明不足や、上で述べた願いや目標をはっきり形として捉えていなかった考え不足、一括して努力不足にて
他者からはそう見られても仕方ないなと自省しました。
思いがけずアップデートのきっかけをいただき感謝しています。
くそねみねむ助さんのnoteでは、
「みんな努力をしていない。」
「過程が分からなければ、評価をされない。
それがミスIDだと思っている。」
「何者になるには、自分の頑張り次第だ。」
というような内容のことをおっしゃっていました。
みんながどうかは正直分からないですが、わたしのことに置き換えたら確かにそうだなと思いました。
先述したように、ミスiDでは、「新しい時代にふさわしい」「まだ見たことのない」「多様な女の子」が求められているようです。
1000人以上が受ける大規模なこのオーディション、受ける理由も様々だとは思います。
本気でグランプリやファイナリストを目指している人もいれば、ちょっと面白そうだから受けてみよう、という人もいるでしょう。
もしもこのミスiDで何かを掴みたいなら、自分の新しさおもしろさ可愛さ、なんでもいいですが、目を惹くようなものを画面越しでも見えるように分かりやすく提示してあげる必要が恐らくあると思います。
ひとりの人間の魅力を理解するなんて容易いことではないので、見つけてもらいたいのであれば自分自身が理解してもらうためにうまく説明してあげた方がいいです。
きっとそういうのがこのミスiDにおける正統派の努力なのかなと思います。
もちろん他にも色々努力の仕方はあると思いますし、ただ楽しむだけの姿勢で努力をしなくても賞をもらえる人も中にはいると思いますが。
努力が必要かというのは目的による、というのが今回のわたしの結論です。
もちろん、努力してるからって努力していない人を不必要にけなしたり、自分のペースでやっていることを引け目に感じたりする人が出てくるのはあまりよくない傾向かなとは思います。
わたしはわたしだし、あなたはあなたですから。
■ミスiDと精神疾患
たしかにミスiDに出ているのは精神疾患を持っている人が多いかもしれないですね。
巷ではメンヘラオーディションと揶揄されているようですが、外部から見たらそうかもな、と納得はできます。
疾患というものはかなりセンシティブな話題だと思うので、簡潔に。
結論から言うとお2人の意見には概ね賛成で、「精神疾患」を主な「アイデンティティー」にするのはあまりよろしくないかな?と思います。
と、いうより、もったいない。
他人がつけた病気の名前だけで、本当はもっと魅力的なあなたを分かられてしまうのはもったいないです。
精神疾患を持っている、というのはひとつの事実でしかないと思います。
きっとその人にしか分からない辛さがあるだろうし、実生活で「私○○なんだ」とカミングアウトを受けたらかなり心配するし気を遣う、その人の力になりたいと誰だって思うでしょう。
でも、ミスiDというオーディションの場だと少なくとも「それで?」と言われてもおかしくありません。
精神疾患の患者という面だけを考えると、全国に同じ人はおそらく何人もいます。
つまり「まだ見たことのない」女の子であると上手く伝わらないんです。
そこに「どう乗り越えたか」「どう付き合っているか」、さらには新しさおもしろさ可愛さなんかの魅力を足して伝えていくことが必要であり、それがミスiDにおける正統派の努力とされるのかな、なんて思います。
もちろん、無理をしない範囲で。
前章と同じような着地にはなりましたが、これがわたしの持論です。
■ミスiDと自己肯定感
過去のミスiDファイナリストに好きな方が沢山いるので、個人的にSNSをフォローして日々眺めているのですが、ひとつ気になっていることがあります。
ミスiDで賞をとったりして有名になって結果を出している方でも、病んでいる姿をよく見かけること。
他者からの評価というものは、100%自己を肯定するまでの存在には至れないようです。
自己肯定感。
不安定な社会に揺るぎなく定着した言葉だと思っていましたが、あめさんの言う通り、そしてお2人をはじめ色々な方のnoteを見る限り、意外と解釈が分かれる言葉のようです。
自分を褒めて誇れる状態のこと、だと今まで簡単に解釈して放っていたので、今回初めて深く考えてみました。
わたしは自己肯定感がある方だと思います。
色々失敗しても立ち直ってまた新しい挑戦ができるわたしが好き。
凹んでも自力で前向きになれるわたしが好き。
偉い人にはまだなれていないけど、日々を懸命に生きているわたしが好き。
200円のバスに乗るのを我慢して、20分歩いて節約をするわたしが好き。
など、小さいことから大きなことまで。
元々自信満々な人間ではないし、褒められも傷つけられもした人生だったので、隙あらば自分のことは自分で褒めてあげるようにしています。
個人的な自己肯定感を保つコツは、評価軸を他人に置かないこと。
わたしが毎日ブログを更新する1番の理由は、他の誰でもないわたしを肯定する為です。
そもそも、わたしは天才だと思っていますが、みんなもそれぞれ天才なので、プラスアルファは絶対必要だと思っています。
その上で、ミスiDを受けるに当たって「これだけ努力した」と明確に数字に表せるようにすることがわたしにとって大切で。
結果が出たら「これだけ努力したから、これだけの結果がついてきた」と、自分と他人を切り分けてそれぞれの視点で自分を褒めたいと思っています。
「ミスiD2022」というわたしの人生を構成する1つのカテゴリに、結果が出たら2つの支えが、結果が出なくても1つの支えは生まれます。
ミスiDにエントリーして、自分の出来る努力を貫いている。
その事実こそが、いつか心が折れそうな時、わたしを支えてくれる自己肯定感になっていくのだと信じています。
色々な戦い方があることを承知の上でわたしが努力を推奨するのは、そういった理由からです。
他の方がどうかは分かりませんが。
ミスiDに救いを求めるのではなく、ミスiDを自らを救うきっかけにできればいいなと思います。
■あとがき
ミスiDに出ている女の子はみんな幸せになってほしいと願っています。
でも、正直周りのことなんて見えてなかったというか、見ていなかった。
冒頭でも述べた通りわたしは自分本位な人間なので、他のエントリー者がつまらなく見えていようが関係ないし、ミスiD2022がわずかな屈折を起こしていようが、気にしないどころか気がついていませんでした。
むしろ「本当のわたし」を見つけるため、自己の成長のためにミスiDという場を利用させていただいているという感覚すら持っていました。
その感覚は核となる部分なので今後も大きくは変わらないですが、ミスiDへの接し方に愛が足りなかったなあと今では思います。
お2人のnoteや皆さんの意見を勝手に覗いて、わたしはミスiDのことを全く良くしようとしていなかった…!と恥じました。
再定義、なんて考えもしなかった。
これからもっとミスiDをよく考えつつ、いいものにしていきたい。
色々な意見はあるようですが、気づきをくれるきっかけとなった全ての関係者には感謝ですね。
日々アップデートだなあ。